山吹と地福寺

宗祇法師・鴨祐為・関鳧翁






地福寺は、現在、【光明山】という山号ですが、昔は、【吸江山】という山号だった

地福寺の前にある古城山を古くは、吸江山(きゅうこうざん)と称し、また、応神山は、笠目山(かさめやま)と称していた

今の地福寺の地には、多くの山吹が生えていて「山吹の岡(丘)」と言われていた

明応3年4月(室町時代末期)に連歌師の飯尾宗祇(いいお そうぎ)が吸江山に登り、休み石に座し『山松のかげやうきみる夏の海』と句を詠んだ


その「うきみる」の語から、その後に吸江山を『海松が丘(みるがおか)』と称えるようになった

うきみる=浮かび上がるように広く遠くに見えるの意。この語にかけて、みる=海松(みる)←海藻の古語。「海松が丘」周辺の海岸には、海藻が多く生えていた。

その後、宗祇は、山吹の丘につながっていた丘陵(馬の背)を通って、今の地福寺にて

『やまぶきをこころのいろかほととぎす』の句を詠んだ

また、時は流れ、江戸中期の京都の歌人で、正四位の下(げ)鴨裕為(かものすけため)が、宗祇の句を知り、小寺清先の案内で地福寺に来山し、17首の歌を遺している

それとは別に『うすかすみたてるも春の名残とや夕日にはへる山吹のをか』という句も詠んでいる

また、同行した小寺清先も『夕日影霞の袖のわかれ路にはるを残せるやまふきの岡(丘)』と句を遺している


鴨祐為の17首歌と関鳧翁、共に真筆の書は、地福寺玄関口に掛けています




この鴨祐為真筆の書は、一度、地福寺から行方不明となりましたが、後に、発見して下さった方が、地福寺へ奉納されたものです

向かって左の新しく紙が付け加えられている部分に、関鳧翁が直筆で、奉納に至る想いを書き添え後世に伝えています


この全文内容は、紙面の劣化や、文字の難しさもあり、長年、解読できませんでしたが

平成28年(平成30年に新たに分かった内容は更に下記へ記載しています)

歴史や文化を大事に想う方々の御縁をいただき、以下の内容と解読されました





吉備の中津國笠岡の吸江山のふ(布)もと地福寺に(尓)て
宗祇法師

山ぶきを(布支越)心のいろか郭公(ほととぎす)
と思ひをか(可)れしよ(里)り山吹の岡といひ
て(傳)ふるよしをきくに(尓)いとなつかしく(具)行(ゆき)て
見れば(連者)やまぶ(万婦)きは(八)ただ(多々)二(ふた)もとばかり
残れり(連里)か(可)の金玉(きんぎょく)を一首の頭に(尓)一字
づ(従)つ冠らしめて卑吟をのぶ

正四位下鴨裕為



ままゆ(満々遊)のに(尓)ほひをこめてほ(本)のほのと
千里に(耳)かすむ春の明ぼの


た(多)れつ(従)つほ(本)のめく花の色に(尓)香に(尓)
は(者)るの(能)日か(可)ずをちぎり(里)てやみ(三)む


(布)くかぜ(可勢)をなどひとかたに(登可多尓)うらむらさ
うつ(従)ろふ花の(乃)ちらず(須)やは(ハ)ある


くか(可)らにむか(可)しをぞ思ふほととぎす(支数)は
この山寺の(乃)ゆふぐれの(連能)こゑ


とづれ(従連)のた(多)えぬは軒(のき)の雫(しづく)にて(尓亭)
さみだれ(佐三多連)くらす(数)よもぎふのやど


のごろの夕(ゆふべ)すずしく(具)なりにけり(奈里尓介利)
いづこに(耳)あきのか(支能可)よひきぬらん


こ(古々)かしこさきたつ(佐支多徒)花の草むらに(尓)
むしも色々のこゑをそふらし


ををして行(ゆき)かたいづこはるる夜の(乃)
つき(従支)に(尓)かずそ(可須曽)ふあきの(支能)舟人


も山もし(志)ぐれ(連)しぐるる(類々)秋の日の
名残(なごり)のいろや木々の紅葉(こうよう)


に(尓)しへの(乃)名もたか(堂可)しまの(満能)はま(者万)千鳥
まさ(佐)ご地とをくあとやとむらむ(舞)


に(尓)より(里)てかた(多)らふ(布)友もなかりけり(奈可利介利)
ひかず(須)ふ(布)りつ(従)む雪の山里


ぞふればま(万)ぢか(可)き春のひかり(日可利)をも
かき(可支)ねに(尓)見す(数)るむめ(免)の初花(はつはな)


(本)のみちしけはひ(希者飛=気配)わ(王)すれぬそらだ(楚多=空薫)きに
琴の音かよふこす(須=小簾)の透(とお)かげ


に(登尓)かくに(耳)涙ばかり(者可里)をしき(志支)しのぶ
閨(ねや)のまくらのくちな(奈)んは(八)うし


り(里)がねに(可音尓)おどろくゆ(遊)めの(乃)よをのこす
かげしづか(可)な(那)るま(万)どの(能)ともしび


し(岸)とをみ生(おひ)そ(曽)ふ松の(乃)ふか(布可)みどり(里)
いく世をかく(具)る沖津白浪


ゑとほき(本支)春につた(尓徒多)ふることのはの(者乃)
宿もふ(布)る根のやま吹のはな(能者那)



これの(古連能)筆跡(ふであと)は(盤)これ(禮)の寺に
あへかんなる(流)もの(毛能)をと藤井信興
ぬしが人の(能)もとに求め(免)得ばいまし
これ(古麗)の寺にを(越)さめむとするをりに(須累乎理尓)
これに(禮耳)賢人はへしといはるるは(者流々盤)

山吹のをか(越可)しとだ(多)にも(毛)後の世の(農)
人も(母)みよとやいまも(以満毛)見ること(類古登)
と思ふ心なれ(禮)おもふまま(満々)をかき(支)
つくるは(都久流盤)これ(麗)


嘉平田■政■路




☆平成30年に入り、上記内容を読まれた森下隆志さんが、「この最後の文字は、関鳧翁の家号ではないか」と気付かれ

更に詳細を調べてくださいましたので以下、新しい情報を記載します☆



森下さんは、約一年かけて、笠岡に限らず、里庄や福山などの近隣図書館へも足を運び、ひとつひとつの疑問を多くの新旧歴史書と照らし合わせ、

気の遠くなるような調査を積み重ねて、地福寺の歴史伝承にお力添え下さいました

本当にありがとうございました





地福寺文書から見えてくる時代背景
(調査を行って下さった森下隆志さんの文章引用)


時代は足利幕府第九代将軍義尚(よしひさ)の頃

文明2年(1480年)旧暦5月に笠をかぶり飄々とした老人が二人のお供を召し連れて地元笠岡の豪族陶山氏の邸宅を訪ねた


陶山氏とは地元金浦の「ひったか」夏祭の起源となった、源平合戦の頃に大和国から笠岡へ入部し

金浦を拠点として笠岡に城下町を築いた平家一門の武家一族

室町幕府側近の御番衆として史書にも登場している


この日、招かれて陶山邸を訪ねた老人は将軍家からも敬重される連歌師飯尾宗祇(1421-1502)

陶山邸で催された歌会の主賓として厚遇された

その時に笠岡で詠まれた句のなかの一首が冒頭の山吹の歌である

宗祇の歌集は「老葉(わくらば)」として出版されている





現在、古城山(旧・吸江山)と地福寺の間は、道路とJR線路が走っているが

線路敷設の明治23年以前は、山腹がせり出し、古城山(旧・吸江山)と応神山(旧・笠目山-地福寺が建っている山)の両方の山は繋がっていた

江戸時代までは、この辺り一帯が「山吹の岡(丘)」と呼ばれていた

地福寺のある辺りの地名を今でも伏越(ふしごえ)と呼び

昔人々此処を越えて歩く時は、前かがみに伏した、という地名の由来が残っている



笠岡古城山は、先の陶山氏の出城跡であったという説もあり

その後、村上水軍の父子二代が在城したと伝えられている


近年は公園として整備され、昭和10年11月に山陽新聞百周年記念企画で岡山県十勝地の県民投票で第7位に選ばれている

頂上からの海の眺望がよく、景観に勝れ、江戸時代も行楽地として賑わった

この古城山の東側中腹に宗祇が杖を置いたという「宗祇休み石」と「句碑」(山松のかげやうきみる夏の海)が残っている

これは寛保2年(1742)に建立された歌碑で、県下では最も古い句碑として知られている





江戸期の笠岡では、和歌と俳句が庶民の間でも盛んに詠まれていた

そんな中、天明〜寛政の1780年代頃に、都から一人の歌人が宗祇が笠岡で詠んだ「山吹寺」の跡を尋ねて来訪

この人物の名前は、鴨祐為(かものすけため)(1740-1801・梨木祐為-なしのきすけため-とも)

世界遺産、京都下鴨神社祠官であり正四位下上総介

生涯に十万首を詠んだという高名な歌人

当時、笠岡に弟子が居た事も判明している



この祐為を地福寺に案内したのは地元郷校「敬業館」の教授・国学者の小寺清先(1748-1827)

清先も和歌に長じた人物で、歌集「楢園歌集」は江戸・京・大坂の三都で同時出版のベストセラーとなった

この二人の歌人は、古城山へ登り、笠岡十景の句を詠み

尾根伝いに地福寺を訪れた

この遠来の祐為を清先が古城山へ案内した、という故事は晩年の追憶として「鳧翁歌集」の安政5年(1858)8月の詞書に書き遺されている



しかし、300年前に宗祇が訪れた頃と違って、二人の歌人が地福寺を訪れた時、山吹の花はすっかり衰退し

見付けた山吹の花は僅か2本のみ

祐為は歌聖宗祇を追慕しながら詠まれた句の17文字(祐為は文中で「金玉-きんぎょく」と表記)を頭文字として、17句の歌を詠んだ


句のなかには、神武天皇が行宮を置いたという笠岡諸島の「高島」が詠まれている


古(いにしへ)の名も高しまの 浜千鳥 真砂地(まさごち)遠く跡(あと)やとむらむ



宗祇法師が地福寺に杖を置いてから300年も経った江戸期に、京都の名だたる祠官祐為が

わざわざ訪ねて句を遺したという史実から、地福寺が山吹寺として全国の文人たちに、よく知られていたことを物語っている

この祐為が17句の歌を書き遺した真筆の墨跡が、今地福寺に残っている





ところが、この古文書には附(つけたり)があり、後半部分に付け紙が貼り足されている

前半部分の祐為文書とは、紙質も筆者も時代も別物

意訳すると

「この文書は、地福寺にあるべきものと、藤井信興氏が他から買い求め寺に納め、後世人に山吹の岡(丘)を伝えたいと聞き

私、嘉平田舎政御路(かへでのやまさみち)=関鳧翁(せきふおう)が書き留めたものである」

と書かれている



関鳧翁(1786-1881)は、笠岡吉浜村で生まれた漢方医、歌人であり国学者

姓は関藤なるも後に関と改姓、諱(いみな)は政方(まさみち)、その表記は政路、政御路、政三千、万沙御路、麻沙密、正方などがある

家号は嘉平田舎(かへでのや)・鶏頭樹舎(かへでのや)と称した

父政信も国学者であり歌人、また弟には福山藩儒臣とし仕えた関藤藤陰がいる

鳧翁も天保5年(1834)3月21日に「山吹の花はみえねど山寺の庭のさくらはさかりなりけり」と地福寺についての句を遺している





鳧翁の歌集には歌会仲間として藤井信興ぬしの名前が度々登場している

藤井氏も江戸後期の笠岡の住人であったことが判明



この地福寺文書は、宗祇〜鴨祐為〜藤井信興〜関鳧翁の四人が時代を超えて

「山吹の岡(丘)の山寺」として世に知れた地福寺の風景を、今に伝えようと語りかけている





笠岡光明山地福寺蔵『宗祇俳句にちなむ鴨祐為句翰』 地福寺文書

吉備の中津國笠岡の吸江山の麓
(ふもと)地福寺にて


                                        宗祇法師(が詠める歌)山布支越(やまぶきを)心のいろか郭公(ほととぎす)      「山吹を心の色かほととぎず」

                     と思ひ置かれしより(地福寺がある馬の背山は)山吹の岡()といひて      馬の背=伏越の昔の峠

                                          傳ふるよしを聞くに、いと懐行(なつかしくゆき)て見れば           祐為は地福寺を訪問

山吹は只二本(ただふたもと)ばかり残れり

()の金玉(宗祇師の遺したる句)を一首の頭に一字づつ

                                                  (かむ)らしめて卑吟(ひぎん)をのぶ              卑吟=自作の歌の卑語

                         正四位下鴨裕為(かものすけため)      梨木(なしのき)家・下鴨社祠官・歌人

                                                      元文五〜享和元1740 1801






 

                「や」山繭の匂いを込めてほのぼのと千里に霞む春の曙              山繭=国産まゆ最高級絹

   
        
(やままゆの にほひをこめて ほのぼのと せんりにかすむ はるのあけぼの)

 

               「ま」待たれつつ仄めく花の色に香に春の日数を契りてやみむ           仄めく=ほのかに見る

   
        
(またれつつ ほのめくはなの いろにかに はるのひかずを ちぎりてやみむ)

 

                 「ふ」吹く風をなど一方(ひとかた)に恨(うら)むらさ虚(うつ)ろふ花の散らずやはある    虚ろふ=色あせた

   
        
(ふくかぜを などひとかたに うらむらさ うつろふはなの ちらずやはある)

 

               「き」聞くからに昔を思ふ杜鵑(ほととぎす)この山寺の夕暮れの聲        杜鵑=不如帰・鵑・子規

   
        
(きくからに むかしをおもふ ほととぎす このやまでらの ゆうぐれのこえ)

 

               「を」訪れの絶えぬは軒の雫(しずく)にて五月雨(さみだれ)暮らす蓬(よもぎ)ふの宿     五月雨=梅雨

   
        
(をとずれの たえぬはのきの しずくにて さみだれくらす よもぎふのやど)

 

                 「こ」此頃夕(このごろのゆふべ)涼しくなりにけり何処(いづこ)に秋のかよひ来ぬらん     何処=いづこ

   
         
(このごろの ゆふべすずしく なりにけり いづこにあきの かよひきぬらん)

 

    「こ」此所(ここ)かしこ先だつ花の草叢(くさむら)に虫も色々の声を添ふらし  

   
         
(ここかしこ さきたつはなの くさむらに むしもしきろの こえをそふらし)

 

        「ろ」()を押して行方何処(ゆきかたいづこ)晴るゝ夜の月に数沿(かずそ)ふ秋の舟人 

   
         
(ろをおして ゆきかたいづこ はるるよの つきにかずそふ あきのふなびと)

 

「の」野も山もしぐれ時雨(しぐる)る秋の日の名残の色や木々の紅葉 

   
          
(のもやまも しぐれしぐるる あきのひの なごりのいろや きぎのこうよう)

 

                   「い」(いにしへ)の名も高しまの浜千鳥真砂地(まさごち)遠く跡やとむらむ      跡=足趾とむ=留める

   
          
(いにしへの なもたかしまの はまちどり まさごちとおく あとやとむらむ)





「ろ」
炉に寄りて語らふ友もなかりけり日数(ひかず)ふり積む雪の山里 

   
         
(ろによりて かたらふともも なかりけり ひかずふりつむ ゆきのやまざと)

 

          「か」数ふれば間近き春の光をも垣根に見する梅の初花              梅=むめ

   
         
(かぞふれば まじかきはるの ひかりをも かきねにみする むめのはつはな)

 

                  「ほ」本のみちし気配はすれぬ空薫(そらだき)に琴の音通う小簾(こす)の透陰(とおかげ) 空薫=古来の香焚き法

   
         
(ほのみちし けはいわすれぬ そらだきに ことのねかよふ こすのとおかげ)

 

                 「と」兎に角に涙ばかりを敷き忍ぶ閨(ねや)の枕の朽ちなん法師         閨=ねや」簾・透けすけの

   
         
(とにかくに なみだばかりを しきしのぶ ねやのまくらの くちなんほうし)

 

                 「と」鳥が音()に驚く夢の夜を残す影静かなる窓の灯火(ともしび)            灯火=ともしび

   
         
(とりがねに おどろくゆめの よをのこす かげしずかなる まどのともしび)

 

                            「き」岸遠見(きしとおみ)(はえ)沿う松の深翠(ふかみどり)幾瀬(いくせ)をかくる沖津白波(おきつしらなみ) 

   
        
(きしとおみ はえそうまつの ふかみどり いくせをかくる おきつしらなみ)

 

「す」末遠(すえとお)き春に伝ふる言(こと)の葉の宿もふる根の山吹の花

   
         
(すえとおき はるにつたふる ことのはの やどもふるねの やまぶきのはな)

 

〜・〜・〜・本文は爰迄、後半は附文の継紙に墨書されている〜・〜・〜・

 

             古連能筆跡盤(これのふであとは)こ禮()の寺に         

            あへかんな流毛能(るもの)をと藤井信興         

   ぬしが人能()もとに求免(もとめ)得ばいまし     

      古麗(これ)の寺に越()さめむと須累乎理尓(するをりに)       

         古禮耳(これに)賢人はへしとい者流々盤(はるるは)        

山吹の越可(をか)しと多()に毛()後の世農  

人母みよとや以満毛見類古登(いまもみること) 

                  と思ふ心な禮()おもふ満々(まま)をか支()                     

    都久流盤(つくるは)こ麗()   
                         
               嘉平田舎政御路
(かへでのやまさみち)                 

 




 

☆その文意は凡そ次の通り

「この文書は地福寺にあるべきものと、藤井信興氏が

他から買い求め、寺に納め、後世人に山吹の岡()

伝えたいと聞き、私、嘉平田舎政御路(関鳧翁)が書き留めたものである」

           

                               天明六〜万延二年17861861

                               関鳧翁=漢方医・歌人本名は関藤政方




地福寺の創建は、建久年間(鎌倉時代後期)

長い長い歴史の中で栄枯衰退を繰り返し、寺宝も散失


古文書として唯一残っているものが上記の地福寺文書

この度、定年退職をされてから郷土史を丁寧に調査されている森下隆志さんの御好意で地福寺の昔の風景が鮮やかに蘇りました

平成28年度に古文書の解読、平成30年度にその深い意味を調査

古い歴史文化を大事にしたい想いのもと、御協力いただけました方々に

心から感謝御礼申し上げます





地福寺に伝わる、たった一枚の古文書、大事に後世へ伝えていきます



合掌



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